人事部長は3人が研修で学んだスキルを生かせずに悩んでいる原因が分からなかった。
でも私は分かった。
3人とも
「組織とは何なのか」
「仕事とは何なのか」
「組織の中で働くということはどういうことなのか」
という「そもそも論」が分かっているようで実は分かっていなかったのである。
教科書的な能書きではなく、その人自身の人生観に基づいた「組織観」や「仕事観」が希薄だったのである
スキル以前に大切なものがあるのだ。
しかし多くの会社や多くの個人はこのことに気づいていない。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
これからのビジネスパーソンに必要とされるものは「ビジネススキル」+「人間としての質を高める教養」です。
ビルドゥングは、パンセ・ソバージュ・アンド・カンパニーのアカデミックなバックグラウンドである「哲学」と経営コンサルティングの場で得られた「現場での経験」が融合したユニークなメソッドによって行われる社会人・企業向けのリベラルアーツ教育です。
私たちが日常生活で「そうだ」と思っていることは「半分の正解」でしかありません。
あなたが思っている「正解」は共同幻想であり、思い込み(ドクサ)であることが多いのです。
皆さん、新聞の見方や新聞の読み方って知っていますか?
スピード?
量?
背景知識の豊富さ?
どれも違います。
答えは「新聞をいくら読んでも本当のことなど分からない」ということを「きちんと自覚する」ことです。コストを下げた会社が賞賛された。
生産性を高めた会社が賞賛された。
リストラを断行した会社が賞賛された。
しかし本当に賞賛できるのだろうか?
確かに、社員に強いたコスト削減努力を上回るものを社長が残したのであればいい。
確かに、生産性を高めるために社員が行った創意工夫を上回るものを社長がやったのであればいい。
確かに、リストラの断行で被った社員の犠牲を上回る犠牲を社長が払ったのであればいい。
・社長がどれだけコストを下げたか?そして、それは量や質の面において社長としてふさわしいものだったのか?
・社長がどれだけ生産性を高めたか?そして、それは量や質の面において社長としてふさわしいものだったのか?
・社長がどれだけ犠牲を被ったか?そして、それは量や質の面において社長としてふさわしいものだったのか?
このような点を追求し、掘り下げ、評価論評した報道を私は知らない。
しかしコストを下げ、生産性を高め、リストラを断行した会社を或いはその会社のトップを褒め称える論評は知っている。
私たちが普段目にしている報道や論評はこの程度のものだ。
このような報道や論評を読んで、ものが分かった気になってはいけない。
新聞だけではありません。テレビもラジオ雑誌もそうです。
流通している・・・特に商業ベースの・・・情報なんてこの程度のものです。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
世の中の多くは「便宜上そうなっている」「便宜上そうしている」だけで「本当だからそうしているわけではない」ということがたくさんあります。
このような問題意識の下で「本当にそうなのか?」「本当にこれでいいのか?」というテーマで具体的な事例を用い、「深く考える経験」を通して本質的思考力を鍛えていきます。
教材からの抜粋例 (1): あなたの「物事の本質を見抜く力」をテストする
【問2】
「わかりやすいと定評のある講師」に研修を依頼するデメリットとは何か?
【問3】
「読むだけですぐわかる」読者に親切なビジネス書を読むデメリットとは何か?
*ヒント*
答えは「費用が高い」とか「評判倒れ(実際はそれほどでもなく)で失望する」といった類のものではない。
★ テスト結果 ★
(A)下のリンクを読んで「ドキッとした人」は本質を見抜くセンスのある人です。
(B)「だから何?と思った人」は本質を見抜くセンスを磨く必要がある人です。
あなたはどちらでしたか?
(出所:中沢努「思考のための習作」)
教材からの抜粋例 (2):事実とは何だろう?
私たちはそうやって情報を得、利用し、時にはそれを他人に伝えたりする。
そういうやりとりが「現実」として眼前に現れ、それが集まり、やがて「事実」となる。
しかし、考えてみて欲しい。
テレビで見た/聞いた情報は、どこまで「本当」なのか?
もちろん、多くの人は「全てが本当だ」とは思っていない。
しかし「全てが本当だとは思っていない」という「個人の懐疑的認識」が集まり、全体性を帯びると、「情報」は「現実」として独り歩きし、いつの間にか正当性を獲得してしまう。
結果として、テレビや新聞やネットの情報は「事実的現象」として認知され、いつの間にか"的"が抜けて「事実現象」となり、次いで"現象"が抜け、最後に「事実」となる。
それが私たちの日常だ。
しかし、これで本当にいいのだろうか?
デカルトは「コギト・エルゴ・スム(私は考える、ゆえに私は存在する)」といった。
方法的懐疑というやつである。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
教材からの抜粋例 (3):エポケー(判断中止)してみる
答えは分からない。
しかし、「上がらない」或いは「下がる」と感じている人は多いだろう。
では、今から20年後の社長のそれはどうだろうか?
上がるか?、下がるか?、イーブンか?
こちらも答えは分からない。
しかし、「上がる」或いは「イーブン」と感じている人は多いだろう。
さて、これを読んでいるあなたも同じように感じていたとしよう。
すなわち、
「庶民の所得は下がる」
「社長の所得は上がる」。
変だと思わないだろうか?
マルクスは「資本家は労働者の労働力の使用価値を手に入れる。しかし労働者には労働力の交換価値しか支払わない」と喝破した。
良し悪しの議論は別にして、まあそれが現実であろう。
「まあ、しかたないさ・・・」が庶民の実感値かもしれない。
しかし、そういう「感じ」に流されていいのだろうか?
ここで、皆さんに提案します。
『実感値に敢えて逆らい「変だぞ」という気持ちを持続させてみる』を。
エポケー(判断中止)の始まりです。
フッサールは現象学的還元という思考の方法を提示しました。
現象学的還元とは「自然的態度の一般定立の徹底的変更」のことです。
これをやるためには、自分の眼前の事物をいったんカッコに入れ、それに対する判断を停止させればいい。
だから、「まあ、しかたないさ・・・」をカッコに入れ「それが現実さ」という判断を停止させるのです。
さて、あなたには何が見えてくるでしょうか?
(出所:中沢努「思考のための習作」)
世界で通用する優秀な組織や人材は、経済性だけでなく社会性と人間性を併せ持ち、広い視野で考え行動します。
・・・その領域にまで達した企業だけが自らを誇り、称賛される。
・・・その領域にまで自分を高められた社員だけが生き残れる。
◆仕事の質はそれをやる人間の質存します。
◆人間の質はビジネススキルだけでは高まりません。
これからの企業は「人間としての質を上げる教育」をしなければならないのです。
対象 | 中堅社員及び管理職(幹部人材/選抜者/エリート育成専門) |
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定員 | 少人数で行います。 |
講師 | 弊社代表 中沢 努 |
内容 | お問い合わせ下さい。 |
備考 |
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人気番組の司会者が「この野菜は健康にいい」と紹介した。
翌日から「その野菜」は品薄になった。
1ヶ月後、「それ」は誰にも見向きされなくなっていた。
ある国から輸入した食品に毒が入っていた。
人々は憤り「安物は駄目だ。これからは高くても国内産を買おう」とつぶやいた。
半年後、その国から輸入された食品の売上高は回復していた。
地震が起こった。
家がつぶれ、道が無くなり、人間が死んだ。
ニュースを見た多くの人々は、恐怖を感じた。
1年後、ほとんどの人はその恐怖を忘れ、日常の雑事に追われていた。
そして今、正義の本が売れている。
不正義が横行しているためなのだろうか。
「正義」を語ることがちょっと知的に、そして新鮮に感じられているようだ。
1ヶ月後。
・・・正義への関心は薄れていないだろうか?
半年後。
・・・正義の本を読んだ時の気持ちをどれだけの人が憶えているだろうか?
1年後。
・・・世間は正義の本をとりあげ続けているだろうか?
(出所:中沢努「思考のための習作」)
(A)
理由は不明だが、いつもどこかで誰かが会議をしているという「会議長者」の会社があった。
お気の毒である。
なぜなら、その大半は「会議のための会議」であって本当に意味のある会議は少なかったからである。
(B)
会社の業績をより正確に評価したいという理由で多数の組織業績指標を設ける会社があった。
お気の毒である。
なぜなら、指標化するための数値入力など指標管理業務が忙しくなり、本来業務の方に手が回らなくなったからである。
(C)
社員のやる気を引き出したいという理由で職位を乱発した会社があった。
お気の毒である。
なぜなら、タイトルを"自分の実力の現れ"と思い込んだ「勘違い社員」が続出したからである。
イギリスのスコラ哲学者W・オッカムは「必要なしに多くのものを存在させてはならない」(オッカムの剃刀)と言った。
あることを成すのにAとBの2つがあれば大丈夫である場合はそれ以外のCやDを増やしてはならないという意味である。
会議であれ、評価指標であれ、職位であれ、本当に増やす必要があるのであればそれでいい。
しかし、実際は「それが本当に必要なのか?」と深く問う企業は少ない。
増やすのは簡単だが、一度増やしたものを廃止することは難しい。
朝令暮改を良しとしトライ&エラーを繰り返すというやり方もあるにはあるが、いいと思っているのは花火をあげる側だけであり、社員は「またか」と白けていることも多い。
やたらに増やすというのは考えものである。
(出所:中沢努「思考のための習作」)