人事部長は3人が研修で学んだスキルを生かせずに悩んでいる原因が分からなかった。
でも私は分かった。
3人とも
「組織とは何なのか」
「仕事とは何なのか」
「組織の中で働くということはどういうことなのか」
という「そもそも論」が分かっているようで実は分かっていなかったのである。
教科書的な能書きではなく、その人自身の人生観に基づいた「組織観」や「仕事観」が希薄だったのである
スキル以前に大切なものがあるのだ。
しかし多くの会社や多くの個人はこのことに気づいていない。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
これからのビジネスパーソンに必要とされるものは「ビジネススキル」+「人間としての質を高める教養」です。
ビルドゥングは、パンセ・ソバージュ・アンド・カンパニーのアカデミックなバックグラウンドである「哲学」と経営コンサルティングの場で得られた「現場での経験」が融合したユニークなメソッドによって行われる社会人・企業向けのリベラルアーツ教育です。
教材からの抜粋例 (1):人間観を鍛える
ある人はわざと見ないようにし、ある人はそれとなく避けて通ろうとしていた。
多くの人がそこを通り過ぎて行った。人々は何を思っただろうか?
お気の毒にと思った人も中にはいただろう。しかし多くは「じゃまだ」「迷惑だ」「離れよう」と思いながら通り過ぎたのではないか。
ここでちょっと視点を変えてみる。
汚いものを汚いと思うのは当然である。異臭は異臭である。近づきたくないと思うのも自然である。
行政の責任だとか、人々の善意だとか、そういうことを言っているのではない。
浮浪者と自分で働き生きている人とは違うのであり、そこに差が生まれるのはやむを得ないのが現実だ。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
教材からの抜粋例 (2):職場の景色から人間を考える
その1
「うちの会社は即断即決」と言っておきながら即断即決しない会社は信頼できない。
その2
「人事の納得性を高めろ」と人事部に命じておきながら自分の報酬額公開を断る社長は信頼できない。
その3
「お言葉ですが、それは見直すべきです」と役員に苦言を呈さないのに部下にはよく苦言を呈する部長は信頼できない。
その4
「不得手を直せ、苦手を克服しろ」と部下に発破をかけておきながら自身の不得手には挑戦せず、そのつらさを味合わない課長は信頼できない。
その5
「あの上司のここがダメ」という割には自分のダメなところに無頓着な社員は信頼できない。
信頼に足りぬ人間とは「発言と行動が一致していない」人間である。
信頼に足りる人間とは「発言と行動が一致している」人間である。
これは「どこまで出来ているか」という問題というよりは「どこまで本気でそうあろう」と思いつづけ、悩み続け、その不十分さに自己嫌悪し続けられるかという問題である。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
世界で通用する優秀な組織や人材は、経済性だけでなく社会性と人間性を併せ持ち、広い視野で考え行動します。
これからの企業は「人間としての質を上げる教育」をしなければならないのです。
対象 | 中堅社員及び管理職(幹部人材/選抜者/エリート候補) |
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定員 | 少人数で行います。 |
講師 | 弊社代表 中沢 努 |
内容 | お問い合わせ下さい。 |
備考 |
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東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)とその後の原発事故(福島第一原子力発電所事故)。
学者、技術者、識者、財界人・・・。多くの人が(自分たちの)「これまでの常識を反省する」言明を行いました。
そして、私たちは・・・
誰もが知っていることだが、宇宙旅行に丸腰で行くことはできない。
水や空気や食物がないからだ。
この事実からもわかるように、人間は人間だけで生きることができない。
あたりまえのことだが、私たちはこのあたりまえのことを日常において忘れている。
例えば地球環境。
・科学(サイエンス)の力で環境を保護する。
・技術(テクノロジー)の力で地球を守る。
聞こえはいいが、私にはとても危うく感じる。
なぜか?
なぜなら「サイエンス」も「テクノロジー」も「人間が自然や環境を支配/操作する」という思想や意志がその根本に潜んでいるからである。
その意味において、科学や技術で地球を守るというのは50パーセントの正解でしかない。
残りの50パーセントは何か?
「人間は人間だけで生きられない」という事実を直視し、その事実にひれ伏し、謙虚になることである。
中世ドイツの神秘思想家ニコラス・クザーヌスは、"ドクタ・イグノランティア"=「知ある無知」ということを言った。
それは「人間が持つ知性の限界を知り、考えるのではなく直観することではじめて人間は神を捉えることが可能になる」という意味である。
悟性で神を理解することなどできないというのだ。
私はこれを「知性で自然を捉えることなどできない」と読み替える。
自然はただの"もの"ではない。
木にせよ、水にせよ、空気にせよ、それらがトータルに循環してはじめて意味をなす有機物である。では、自然を有機体としてトータルに循環せしめているものは何か?
それは人間ではない。
それは人間を超えた"何か"であり"超越物"であり、"神"である。
悟性で神を理解することなどできないように、人間は知性の産物である「サイエンス」や「テクノロジー」で自然をものにすることなどできないのだ。
だから私たちは自然や、自然を自然たらしめている"何ものか"をいじろうとするのではなく、ひれ伏し、只々謙虚にならねばならない。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
「自分に」問いかけ、「自分で」考えてみて下さい。
・・・地球は誰のものでしょうか?
・・・人間は「地球に生きている」のでしょうか?、それとも「地球に生かされている」のでしょうか?
・・・あなたは「以前の日常」に戻ってしまっていませんか?
(その2)
誰だって痛いのは嫌だ。
誰だって楽をしたい。
誰だって自分の欲を満たしたい。
でもそこまで自分に正直なるのであれば、そこで止めてしまわず、もっと正直になればいい。
痛みを避けるためには、相応の代償を求められる。
楽を続けるためには、相応の代償を求められる。
自分の欲を満たし続けるためには、相応の代償を求められる。
そしてその代償を払わずに済ますことはできない。
これまでその代償を払わずに済んできたとしたら、それはいずれ大きなツケとなってあなたにはね返ってくる。
それを無視したら、そのツケは他の誰かに付け替えられる。
あなたのために、見知らぬ誰かが割を食うのだ。
強く、強く、感じる。
(出所:中沢努「思考のための習作」)