“キャリアの根源”から始めるからこそ見えてくる (どう生き・どう死にたいか、を考える)
新しいキャリアマネジメントの実践: 「キャリア開発白熱教室」
キャリア開発のポイントとは何か?
・・・「キャリアを考えさせない」ことです
では、何をするのか?
・・・「どう生き、どう死んでいきたいか」を考えさせるのです。
なぜか?
それは・・・以下の2つを読めば分かります。
仕事とは大切なものかと問われれば、殆どの人が「大切だ」と答える。
仕事が嫌いな人でも、寝る場所を確保し/飯を食い/衣服を纏う/、ためには仕事をしなければならないわけで、そういう答えになるのだろう。
しかし私は、「本当にそうだろうか?」と思う。
そして私は、「本当にそうだろうか?」と考える。
さらに私は、「本当にそうでしょうか?」とあなたに問う。
自分に問い/あなたに問う、その理由を以下に記す。
「どう生きるのか」
「どう生きたいのか」
「どういう死に方をしたいのか」
こういものがまずあって、「そのためにこう働く」というのがあるはずだ。
なぜなら私たちは仕事のために生きるのではなく、自分の人生のために生きているからだ。
現実は逆になっているように感じる。
どうも初期設定がずれているように思えてならないのだ。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
何が自分を動機付けるのか?
何が社員を動機づけるのか?
仕事のモチベーションはどこからくるのか?
これらの質問の答えは同じところにあります。
それは、個人としての「生き方」や「死に方」という極めて根源的かつベーシックなところにあるのです。
巷に流通している「動機づけ理論」や「モチベーションのノウハウ」などに飛びつく前に、もっとベーシックなものを見つめ、「自分の根源を鍛錬する」ことをお勧めします。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
懸命に働く人がいました。年収をアップさせたかったからです。
朝はラッシュに揉まれて経済紙。
昼は食事もそこそこに午後の打ち合わせの想定問答。
夜は「あすは直行だ」と呟きながら他の乗客に見えないようページを閉じた隙間から文字を追い、部下が作ったプレゼン資料をチェック。
本屋へ行って書籍をまとめ買いし、休日は自腹でセミナーに参加。
すべて自分のためと言い聞かす。
会社では上司と部下に挟まれ、両方から突き上げられながらもじっと我慢。
ふらふらになりながらも音をあげなかった。
その労苦が報われる日が来た。
肩書きが変わり、年収は200万円上がった。
上司から祝福され、職場では「すごいね」と囁かれた。
もっと充実した毎日になってもいいはずだったが、実際は違った。
目標数値の桁が増え、部下の数が増し、社内政治に翻弄された。
気力と体力が減り、ストレスが増えた。
日を追うごとに不健康になっていき、家でも職場でも笑わなくなった、というかそういう感情が全く湧いてこなかった…。
こういう人を私は見てきました。
こういう人と一緒に酒を飲んできました。
こういう人の悩みを聞いてきました。
そして思いました。
「みんな『自分』がない」
200万は大金です。10倍すれば2000万円になります。
でもそれと引き換えに、10年間、疲労・ストレス・私生活の乱れを溜め続けねばならない。
その代償はあまりにも大きい。
それらを犠牲にしてでも地位やお金を追うと覚悟した人はそれでいい。
それは嫌だから中の下でもいいと覚悟した人はそれでいい。
悲惨なのは「何だかんだ言っても、地位やお金って大事だよね」と何となく思い込み、その「何となく」に動かされている人です。
悲惨な人とそうでない人との違いは何か。
・何を意志するのか?
・今の自分にその「意志」があるか?
・ない場合、それを自覚できるか?
意志しない人は「会社に」、「上司や部下に」、そして「その他全てのしがらみに」振り回されます。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
これまで多くの企業に対し、キャリア開発支援を行ってきました。
そして「自分のキャリアを切り開くきっかけをつかみあぐねている人」にたくさん出会ってきました。
社員にキャリアを開発させたいのであれば、
・・・職歴を振り返らせる前に、
・・・強みと弱みを明確化させる前に、
・・・将来像をイメージさせる前に、
以下を考えさえるべきなのです。
「どう生きたいのか」とか「どう生きようとしているのか」が希薄なままでキャリアを考えさせても必ず頓挫します。
「自分の生き方」から始めるのがこれからのキャリア開発/キャリアマネジメントの姿です。
対象者 | キャリア開発を望む社員 |
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定員 | 少人数で行います。 |
講師 | 弊社代表 中沢 努 |
内容 | お問い合わせ下さい。 |
備考 |
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-成功の質は生き方の質に制約される-
マルクスは「上部構造は下部構造に制約される」といいました。
「物質的なもの(=経済)が精神的なもの(=政治や文化)を規定する」という意味です。
有名な唯物史観という立場ですね。
マルクスの話しは他の機会に譲るとして、今日は皆さんに「成功の質」についてお話ししたいと思います。
皆さん、「本当の成功」って何だと思いますか?
私はこう考えます。
どういうことかと言いますと・・・
仕事で頻繁に訪れる場所で度々見かける人がいる。
その人は有名な企業の元社長だ。これを読んでいる人の殆どは一回は利用したことがあるに違いない会社である。
そこを立ち上げ、大きくした人だ。
その企業は業界のパイオニアであった。
経済誌などでその成功は広く喧伝されたし、そういう偉業を成し遂げた事業家として新聞などにもよく登場していたものだ。
しかし、その人は自分が創業し大きく育てた「我が子」から追い出された。やってはいけないことをしたからだった。
やってはならぬことをやってしまったその人は、ノーネクタイながらそれなりの値段がするであろうと思われるスーツを着ており、さすがに身なりだけは立派だった。
しかしその立派なスーツとは対照的に、その人の目、姿勢、漂わせている雰囲気は弱々しく、どこか他人からの目を気にしているように見えた。
事業家として成功した人は、どんな人であれ「凄み」をもっており、その人が望むか否かに関係なく、その凄みを感じさせる「何か」を漂わせているものだ。
しかし私が何度も目にしたその人からは、そのような凄みは何も感じられなかった。
私はその人の人生を想った。
・起業した時は熱い気持ちをもっていただろう。
・はじめたばかりの時は凡人ならば音をあげるに違いない苦労があっただろう。
・軌道にのってからはものすごい充実感を味わっただろう。
しかし、美酒を味わった勝者はその後地獄を見た。
あの人は今、何を想って生きているのだろう。
・開き直り、か
・あきらめ、か
・いつかは復活してやるぞという怒り、か
真実はその人しか知り得ないが、私が見たその人からは、これら3つのどれも感じることはなかった。
私が見たのは、まるで魂を抜かれたような弱々しい一人の壮年の男性に過ぎなかった。
(出所:中沢努「思考のための習作」)
経済的に成功し、人間として成長し続ける人。
経済的には成功したが、そこまでの人。
成功の質は生き方の質に依存する。
私が「成功の質は生き方の質に制約される」といった所以です。
マルクスの唯物史観は今も生きています。
あなたは「自分の生き方の質を高める努力」をしていますか?
本当の成功を手に入れるような生き方をしていますか?
(出所:中沢努「思考のための習作」)
-思想に命をかけた女性 シモーヌ・ヴェーユ-
金や名誉など、俗なものに魂を売る人間は多い。
しかし、その逆のものに自分を預け、それを貫くために命をかけ、実際に死ぬ人間は少ない。
今日は、「悲惨」や「苦しみ」を理解するために自ら進んで心身を傷つけ、死んでいった哲学者の話しをしよう。
その哲学者の名前はシモーヌ・ヴェーユ。
1909年パリに生まれ、最後は入院先の病院で医師の説得を受け入れず食物を拒否し、飢餓同然で34という若さで死んだ女性である。
彼女はインテリであったが、体が病弱だった。言葉で言い表せぬほどの激しい痛みが伴う持病を常に抱えながら生きねばならなかった。
ヴェーユは、貧しさを心の底から味わうために哲学教授という身分を明かさずに労働者として工場で働いた。
さらに、第二次世界大戦の時代にはレジスタンス要員として祖国フランスへ行くことができなかった代わりにフランス国内で配給として支給されている量の食べ物しか口にせず、祖国の人間と同じ窮乏を自らに課した。
そして、最後は入院先の病院で医師の説得を受け入れず食物を拒否し、飢餓同然で34歳という若さで死んだ。
ギュスターブ・ティボンはこう言っている
「彼女は、単に〈知ること〉と〈全精神をつくして知ること〉とのあいだには絶望的なへだたりがあることを知りつくしていたし、みずからそのへだたりを体験していた。彼女の人生の目的は、ただこのへだたりをなくすということにつきた。」
功利的にはこれほど馬鹿げた人生はないかもしれない。
私は、シモーヌ・ヴェーユの自己犠牲を美化するつもりはない。
しかし、ヴェーユの「自分の信念や思想を愚直に全うしたその生きざま」には心の底から共感する。
ギュスターブ・ティボンは続いてこう言った。
「シモーヌ・ヴェーユの文章は、注釈などをつけたりすれば、かえって品位をおとし、歪曲するだけになりかねないような、すぐれて偉大な作品の部類に入るものである。」
私は、ティボンのこの言葉に同意する。
だから、これからヴェーユの言葉をただ列挙してみる。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その1)
・貧困には、他にいかなる等価物もみあたらないような詩がある。それは、悲惨さという真理の中にみられる悲惨な肉体から発する詩である。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その2)
・苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その3)
・本当のものを表現するには、つらい努力が必要である。本当のものをそれと認めるのも、同じである。にせものならば、あるいはせいぜいのところ表面的なものならば、表現するにも、それを認めるにも、努力はいらない。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その4)
・肉体の苦しみ(それに、物質的な窮乏)は、勇気ある人たちにとって、忍耐力と精神力をためす機会になることが多い。だが、それらをもっとよく役立たせる道がある。だから、わたしにとっては苦しみが単に自分をためす機会に終わらないように。人間の悲惨を身にしみて感じさせるあかしとなるように。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その5)
・人間の悲惨をじっとながめていると、神の方へと連れ去られる。他人を自分自身のように愛しているときにはじめて、人はこの悲惨をながめうるのである。自分を自分としてでは、また、他人を他人としてでは、この悲惨をながめえない。
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その6)
・梃子。上げたいと思うときは、下げること。それと同じことで、「自分を低くするものは、高くされるであろう。」
(シモーヌ・ヴェーユの言葉 その7)
・神よ、どうかわたしを無とならせてください。わたしが無となるにつれて、神はわたしを通して自分自身を愛する。
ヴェーユの言葉を前にして、私は、ただただ沈黙する。
(出所:中沢努「思考のための習作」)