世に広く喧伝されている「ワークライフバランス」や「その位置づけ」は否定されるべきではありませんが、本来言及されるべき点が指摘されずに放置されたままになっています。
ここでは、ワークライフバランスの本質を考えてみたいと思います。
現在のワークライフバランスに関する議論や報道の中核をキーワードで示すとすれば、「他(た)」に他なりません。
いずれも「他」=「自分の身の回りや環境」をどう変えるか=どう変わってもらうかという視点から議論が出発し、そこから導かれた具体策が提言・導入されているからです。
“Life”とは人生のことであり、人生というのは(言うまでもなく)自分のものであるはずです。にもかかわらず、議論の出発点が“自分の外側”(=他)からスタートしているというのは、どこかずれている・・・何か大切なことを飛ばしたままでその次の議論が始まってしまっている・・・のではないでしょうか?
本来は「自分」から出発した問題設定がまずあり、その後に「自分の周囲」に関する議論が行われるべきではないかと思うのです。
つまり、
という問いをし、「自分の人生をどう生きるか」「そのために自分をどう変えるか」いう視点から発せられた問題に対し深いレベルで自問自答しそれを克服する何らかのアクションがとられた後で、「個人の努力では限界がある。故に『会社にはこう変わって欲しい』『世の中がこうあって欲しい』」と要求すべきなのではないでしょうか?
誤解して頂きたくないのですが、「周囲が変わることを願う・それを求める」ことが悪いといっているわけではありません。
しかし、「人生」という本来的にやっかいな、深遠なもの自体が名称になっている「ワークライフバランス」が、あまりにも軽く取り上げられ、表面的な議論になっている。
託児所が設置され、勤務形態が多様化したところで、はじめは目新しさから「よかった」と思うでしょうが、それに慣れてしまえば、その次の不満足要因が目に付きまた周囲に対して変わることを求める・・・。
これで本当に満足する“ライフバランス”が実現できるのでしょうか?
世の中は個人の集合体です。また、会社も個人の集合体です。社会や会社のせいでワークライフバランスが乱れているということは、その問題の根源は個人に帰着するはずです。
個々人が自分の人生を内省する。自分で出来ることをまずやる。その後に周囲はどうあるべきかを問い要求する。これが本来の順番です。それをせずして周囲が変わることを望むのはアンフェアーです。
“ライフ”を問うためにはそれくらいの覚悟が必要であり、周囲に改善を要求するためには相応の義務と責任を負うことが必要になります。
ワークライフバランスの本質は「自分」にあるのです。