STORY
お念仏のように「変われ」と唱えても、人は変わらない。
(ストーリー001) 仕事ってそんなに大切なのか
仕事とは大切なものかと問われれば、殆どの人が「大切だ」と答える。
仕事が嫌いな人でも、寝る場所を確保し/飯を食い/衣服を纏う/、ためには仕事をしなければならないわけで、そういう答えになるのだろう。
しかし私は、「本当にそうだろうか?」と思う。
そして私は、「本当にそうだろうか?」と考える。
さらに私は、「本当にそうでしょうか?」とあなたに問う。
自分に問い/あなたに問う、その理由を以下に記す。
「どう生きるのか」
「どう生きたいのか」
「どういう死に方をしたいのか」
こういものがまずあって、「そのためにこう働く」というのがあるはずだ。
なぜなら私たちは仕事のために生きるのではなく、自分の人生のために生きているからだ。
現実は逆になっているように感じる。
どうも初期設定がずれているように思えてならないのだ。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー002) お金ってそんなに大切なのか
今度はお金について考えてみる。
「お金って大切か?」と問われれば、どんな人でも「大切だ」と答えるだろう。
お金の有難さが分かっていない金持ちのボンボンであっても、原資が枯渇すれば慌てふためく。
結局、誰にとってもお金は大切なのだ。
しかし、私はあえて自分に「お金は本当に大切なのか?」と問う。
そして、私はあえてあなたに「お金は本当に大切なのか?」と問う。
問われた私は「お金は大切だ」と答える。
問われたあなたもきっと「お金は大切だ」と答えるだろう。
どうやら問いのたて方が良くないようだ。
こう問い直してみる。
「お金をいくら欲しますか?」
- あなたは、何のためにその額を欲するのですか?
- それを得るために、あなた自身は何をどの程度犠牲にするつもりですか?
- それをやったら、妻や夫や子供にどのような犠牲をどの程度強いることになりますか?
そして自由競争の中で、
- あなたは自分の欲求を満たすために、これまでどこの/誰を/どのくらいまで/何人、蹴落としてきましたか?
- 今後、どこの/誰を/どのくらいまで/何人を、蹴落とすことになりますか?
- あなたやあなたの子供が見知らぬ誰かにその人自身の欲求を満たすために蹴落とされるとしたら、どの程度までなら足蹴にされても我慢出来ますか?
雑音が少なく思考の純度を濁すようなものが視界に入らない場所・・・深夜の河川敷のように・・・へ行って、黙って一人で考えてみて下さい。
何をいまさら・・・と簡単に済ませていた「お金は大切だ」という当たり前のことがちょっとばかり不気味に思えてくるかもしれません。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー003) 夫や妻への愚痴を中和/解毒する方法
「もっと家事を手伝ってよ、私だって大変なんだから」と夫をなじる妻がいた。
「お前には人を労わる気持ちがないのか?俺だって大変なんだぞ。まったく」と妻をなじる夫がいた。
なじる側にはなじるだけの事情があるのだろう。
なじられる側にはなじられても仕方のない何ががあるのだろう。
このような戯言はどこの家庭でも一つや二つはあるのかもしれない。
所詮夫婦などはそういうものなのかもしれない。
しかしこの戯言をじっと見つめていると、味わい深い景色が見えてくる。
そもそも、そういう夫を選んだのは誰なのか?
そもそも、そういう妻を選んだのは誰なのか?
配偶者を選ぶということは恐ろしい。
人としての器の小さな人は、人としての器の小さな人と結ばれる。
精神的に成熟した人は、人としての重みや厚みに欠ける人と日常を共にしたいと思わないからである。
人としての器の大きな人は、人としての器の大きな人と結ばれる。
精神的に成熟した人は、人としての重みや厚みのある人と日常を共にしたいと思うからである。
相手をなじる前に自分の器の大きさを省みてみよう。
いつもとは違う言葉が出てくるかもしれない。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー004) 頭を空にし感じるための3つのモノローグ
【その1】
わかっているのにできないのはなぜか?
なれの果ての自分が見えていないからだ。
それはすなわち、実感していないということだ。
下らない理屈を追うのはやめ、どん底まで落ちてみよう。
【その2】
自分のために問いを立て、自分のために問いを問う。
会社のためでも、上司のためでも、お客のためでもない。
ただただ自分のためだけに問うてみる。
まっすぐ、濁りなく、自分に問うてみる。
【その3】
最近のネットでは人はすぐつぶやく。
手紙ではそうはいかない。
でも、その手間と時間がいいのだ。それだけ考えるのだから。
思考をねかし、思考を熟れさせ、完熟させないと薄っぺらな人間になるぞ。
いつもとは違う言葉が出てくるかもしれない。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー005) 人間を支配するものは時代によって変わる
【古代】
神話が世界を支配した。人間は神話を尊び、怯え、従い、その中で生きた。
【中世】
教会が世界を支配した。人間は教会を尊び、怯え、従い、その中で生きた。
【近代】
近代は人間が世界を支配しようとした。人間は自然を操ろうとし、一部は成功し一部は失敗した。
【現代】
現代はお金とテクノロジーが世界を支配している。人間はお金の奴隷になり、テクノロジーにその日常を差配されようとしている。
古代、中世、近代、現代・・・。
時代を経るごとに世の中は便利になり、快適さが増した。
時代を経るごとに医療は進歩し、人間は簡単な病気で命を落とさずに済むようになった。
古代の人間、中世の人間、近代の人間、現代の人間・・・。
ところで、どの時代の人間が一番幸せなのだろう?
ところで、どの時代の人間が一番人間らしく生きているのだろう?
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー006) ミー・ファースト 他人との距離が取れない人
【第1の人】
混んだ電車の中でバックを肩にかけたままの「他人との距離が取れない」人がいる。
電車を降りようとする人に謝るどころか、自分の体が流されないようにと必死にバックでその人の動きを阻止している。
【第2の人】
横一列に並んでゆっくりと歩き、後ろの人の歩を停めてしまう「他人との距離が取れない」人がいる。
なんとか迂回し追い抜こうとする急いでいる人に「すみません」と言う人もいるが、たいては無言である。
【第3の人】
ビショビショの傘で隣の人のズボンを濡らしてしまう「他人との距離が取れない」人がいる。
昼間の車中であればいいのだがラッシュの時間だと避けたくても避けられず、思わぬ水害に遭うことがある。
こういう人たちは自分が同じようなことをされたら何を感じるのだろう?
こういう人たちが誰かを指導せねばならない立場に立った時何と言うのだろう?
まさか「相手のことをよく考えてね」などとは言わないだろうが。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー007) コギト・エルゴ・スム 懐疑なき人間は養殖魚
テレビを見ながら朝ごはんを食べる人がいる。
新聞を読みながら通勤する人がいる。
ネットで検索しながら仕事をする人がいる。
私たちはそうやって情報を得、利用し、時にはそれを他人に伝えたりする。
そういうやりとりが「現実」として眼前に現れ、それが集まり、やがて「事実」となる。
しかし、考えてみて欲しい。
テレビで見た/聞いた情報は、どこまで「本当」なのか?
新聞で読んだ情報は、どこまで「本当」なのか?
ネットで拾った情報は、どこまで「本当」なのか?
もちろん、多くの人は「全てが本当だ」とは思っていない。
しかし「全てが本当だとは思っていない」という「個人の懐疑的認識」が集まり、全体性を帯びると、「情報」は「現実」として独り歩きし、いつの間にか正当性を獲得してしまう。
結果として、テレビや新聞やネットの情報は「事実的現象」として認知され、いつの間にか“的”が抜けて「事実現象」となり、次いで“現象”が抜け、最後に「事実」となる。
それが私たちの日常だ。
しかし、これで本当にいいのだろうか?
デカルトは「コギト・エルゴ・スム(私は考える、ゆえに私は存在する)」といった。
方法的懐疑というやつである。
これをやっても真実が見つかるとは限らない。
でもそれをやらないから、「懐疑的認識」から「懐疑的」が抜け落ちるのだ。
懐疑を失った人間は養殖魚である。
生きるのではなく、・・・権力に懐柔され、誘惑に籠絡されるという意味において・・・飼われるからだ。
斯くいう私も「飼われている」人間の一人だ。
だからこそ「懐疑せねばならない」と強く思うのだ。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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(ストーリー008) シュライエルマッハー的精神態度
「信仰」を持つことは大切だ。
なに、いわゆる“宗教”の話しではない。
私がここで言っている「信仰」とは必ずしも既存の宗教を信じることではない。
(もちろん既存の宗教を信仰していてもいいのだが)
では何か?
それは「自分を超えたもの」を信じるという精神行為のことである。
それはすなわち、以下の行為である。
(A)何を:人間(自分)を超越した「何か」を。
(B)どうする:その前では威張らず、黙り、本気で信頼し、自分自身を預ける。
私が言わんとしている信仰とは、(A)+(B)のことなのだ。
だいたい、私を含め、人間はろくなことをしていない(部分を持っている)。
自然を貪り/破壊し、他人を貪り/利用し、それらをそうたらしめている慣習や仕組みや秩序のなかでうだつを上げようと懸命になり、アロガント(傲慢)になっている。
聖人ではないからゼロにするのは無理だが、アロガントは少ない方がいい。
そのためには、信仰・・・人間を超越した何かを思い浮かべ、黙り、自分自身を預ける・・・するのがいい。
そういう存在を前にすれば、自ずと謙虚になれるからだ。
もしあなたがそういう「何か」を持っていたら?
素直にそれに寄り添えばいい。
「絶対依存の感情」という言葉がある。ドイツのシュライエルマッハーという神学者の言葉だ。
シュライエルマッハーは宗教で大切なのは「理性」でなく「意志」でもなく、「感情」だと言った。
私たちは、エゴを正当化するためにいろいろな理屈を作りだす。
理性をもって言葉を操り、意志の力でそれを用いる。
その結果生まれたアロガントに対し、私たちの「理性」や「意志」は無力である。
なぜなら私たちのそれらは、アロガントに汚されているからだ。
さあ、あなたのアロガントを自然に包み込んでしまうような「何か」を見つけよう。
そして「絶対依存の感情」で寄り添ってみよう。
出所:中沢努 「思考のための習作」
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